REPLY FORM
この掲示板にははじめて書き込みします。
以下は1つのまとまった意見というより、
掲示板でのやり取りの中で少し疑問を感じた点についての書き込みです。
日本以外の国では「自国に甘い」のは至極当たり前のことで、
誰でも堂々とやっていますが、日本人は極端にそれを嫌いますよね。
おそらく「他国からどう見られるか」をやたら気にするからでしょう。
でもそれをし過ぎるから、いつも外国に対して及び腰になっていると思います。
女子の方で抗議する際に「自国に甘い」と思われないために、
男子の方の高橋選手が高すぎると言っておくべき、という声もありました。
戦略的にはそういうのもアリなのかも知れませんが、
私は必要ないと思っています。
でも高橋選手について、「自国で叩かれすぎ。。。」は大袈裟だと思います。
高橋選手の快挙を素直に賞賛している声が大多数ですから。
それから、プルシェンコ選手がPCSのような「格付け点」の恩恵を
受けやすい存在であることは、彼自身も認めていると思います。
というのも、彼がトリノ後にアマ現役を休んでいる時にテレビ観戦などをしていて、
「実績のない選手が素晴らしい演技をしても点数が低すぎる」
ことに疑問を感じたそうですから(それは旧採点でも大差はないと思われます)。
プルシェンコが満身創痍の体に鞭打ってわざわざ競技に復帰したのは、
「今のフィギュア界に一石を投じるため」でしょうけど、
その中に「新採点への抗議」が大きな割合を占めることは確かだと思いますが、
それ以外にも「格付け点も必要ない」、つまり自分に不利になり得る主張もしていると思われます。
あと新採点の議論については、各選手の演技の個性を奪ったことも問題ですし、
また結果的に高難度ジャンプに挑戦することが損になった点も問題だと思います。
スケーティングの上手さやミスのない演技はプロのショーで楽しむ方がいいと思いますが、
アマ競技ならではの良さは、失敗の可能性があってもアスリートとしての限界に挑戦することだと思います。
それがなければ、アマ競技の存在意義は薄いのではないでしょうか。
最後に、評価の正当性を主張するには、評価基準の可視化が重要です。
ですから評価への意見を言う人達に、「詳しく勉強しろ」というのは本末転倒だと思います。
(もちろん、詳しく勉強した上で批判する人がいたら、それも歓迎されるべきですが)
評価が正当であることを証明するのは、評価した側の責任です。資料も評価した側に存在する訳で。
見ている側はそれに疑問を呈するだけで十分なはずです。
以下は1つのまとまった意見というより、
掲示板でのやり取りの中で少し疑問を感じた点についての書き込みです。
日本以外の国では「自国に甘い」のは至極当たり前のことで、
誰でも堂々とやっていますが、日本人は極端にそれを嫌いますよね。
おそらく「他国からどう見られるか」をやたら気にするからでしょう。
でもそれをし過ぎるから、いつも外国に対して及び腰になっていると思います。
女子の方で抗議する際に「自国に甘い」と思われないために、
男子の方の高橋選手が高すぎると言っておくべき、という声もありました。
戦略的にはそういうのもアリなのかも知れませんが、
私は必要ないと思っています。
でも高橋選手について、「自国で叩かれすぎ。。。」は大袈裟だと思います。
高橋選手の快挙を素直に賞賛している声が大多数ですから。
それから、プルシェンコ選手がPCSのような「格付け点」の恩恵を
受けやすい存在であることは、彼自身も認めていると思います。
というのも、彼がトリノ後にアマ現役を休んでいる時にテレビ観戦などをしていて、
「実績のない選手が素晴らしい演技をしても点数が低すぎる」
ことに疑問を感じたそうですから(それは旧採点でも大差はないと思われます)。
プルシェンコが満身創痍の体に鞭打ってわざわざ競技に復帰したのは、
「今のフィギュア界に一石を投じるため」でしょうけど、
その中に「新採点への抗議」が大きな割合を占めることは確かだと思いますが、
それ以外にも「格付け点も必要ない」、つまり自分に不利になり得る主張もしていると思われます。
あと新採点の議論については、各選手の演技の個性を奪ったことも問題ですし、
また結果的に高難度ジャンプに挑戦することが損になった点も問題だと思います。
スケーティングの上手さやミスのない演技はプロのショーで楽しむ方がいいと思いますが、
アマ競技ならではの良さは、失敗の可能性があってもアスリートとしての限界に挑戦することだと思います。
それがなければ、アマ競技の存在意義は薄いのではないでしょうか。
最後に、評価の正当性を主張するには、評価基準の可視化が重要です。
ですから評価への意見を言う人達に、「詳しく勉強しろ」というのは本末転倒だと思います。
(もちろん、詳しく勉強した上で批判する人がいたら、それも歓迎されるべきですが)
評価が正当であることを証明するのは、評価した側の責任です。資料も評価した側に存在する訳で。
見ている側はそれに疑問を呈するだけで十分なはずです。